太宰治、なぜこんなに“わかりにくい”?― 読後にモヤる理由、解説します ―

文学・小説レビュー


「太宰、よくわからなかった…」

それ、あなただけじゃありません。

太宰治の小説って、文章はやさしいのに、読後に残るのは“ふわっとした違和感”。

感動よりも、どこか置いてけぼりにされたような気持ち──。

「暗い」「意味不明」「面白くない」なんて声も、よく聞きます。

実際、年間200冊以上読む私も、太宰だけは「え、これどう受け止めれば?」と悩むことが多くて(笑)

でも最近、その“わかりにくさ”にはちゃんと理由があると気づきました。

短編をいくつか読み比べてみると、無駄が一切なく、
皮肉やユーモアを効かせた、精巧な構成の小説だとわかります。

親しみやすいのに、じつは緻密。

共感を誘いながらも、どこか冷めた視線がある。

そのギャップこそが、太宰が“文豪”と呼ばれる理由なのです。

今回は短編『灯籠』を入り口に、
「太宰作品がなぜ読みにくいのか?」を、3つの視点からやさしく紐解いてみます。

太宰の小説がわかりにくい3つの理由


大きく分けて、次の3つの理由が考えられます。

① 「物語らない」から

起承転結

太宰の短編には、物語としての起承転結や明確なオチがありません。


「何が起きたか」よりも、「そのときどう感じたか」に焦点を当てた作品が多いのです。

たとえば『女生徒』では、一人の少女の一日が淡々と綴られるだけ。


事件も展開もないまま、読者は彼女の細やかな感情の波を追っていきます。

これは、太宰が“心情のスナップショット”に重きを置いているから。


ストーリーではなく、感情のかけらを静かに差し出してくるので、

「この小説は何を伝えたかったのか?」

という問いにすぐ答えを出せないのです。


② 「語られないこと」に真実がある

太宰の登場人物は、本音を語りません。


ときに嘘をつき、演じ、皮肉や自虐で自分を覆います。

つまり、「この登場人物の言っていること=本心」とは限らないのです。

たとえば短編『灯籠』では、少女・さき子が青年・水野と出会い、彼が水着を持っていないと知ると、町の商店で水着を盗んでしまいます。

なぜそんな突飛な行動に出るのか?
作中では、さき子の心理はほとんど語られません。

恋心? 衝動? それとも、日常からの逃避?

読者にその「行間を読む力」が求められます。
太宰の作品は、“説明”のないところにこそ、心の核心があるのです。

③ 時代背景・価値観のズレ

太宰の作品には、昭和初期(戦前〜戦中)の社会や価値観が色濃く反映されています。

たとえば『灯籠』で、さき子は水野との関係が周囲に知られたことで「男狂い」と陰口をたたかれます。


たった一度の淡い恋、それだけで“ふしだら”と決めつけられてしまうのです。

「あの、わがまま娘が、とうとう男狂いをはじめた」

「逢うひと、逢うひと、みんな私を警戒いたします。もう、どこへも行きたくなくなりました。」

現代なら微笑ましい恋の始まりとして描かれるはずの行動が、当時の社会では“逸脱”と見なされる。


こうした背景を知らずに読むと、登場人物の感情や行動に共感しにくくなるのも無理はありません。


「わからなかった」は、文学への入り口

太宰の文学

太宰の短編は、ストーリーや説明が極端に少なく、感情や余白で読ませるタイプの文学です。

その“わかりにくさ”にモヤモヤするのは、自然なこと。


けれど、そこにこそ人間の繊細さ、複雑さが凝縮されています。

登場人物の本心は語られず、行動に託され、読者がその裏にある感情を想像することで、物語が完成する。


太宰の小説は、読み手との“共同作業”で成り立つ作品なのです。


さいごに

「意味がわからなかった」読後感。

それは、あなたの読解力が足りないからではなく、「感じる余地」を持たされたからこその違和感かもしれません。

もう一度ページをめくってみてください。


最初は見えなかった感情の輪郭が、少しだけ浮かび上がってくるかもしれません。

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