太宰治の小説って、時々「???」となりませんか。
『灯籠』もその一つ。
ヒロイン・さき子が彼のために万引きしたり、捕まえたお巡りさんに好意を持ったり、挙句の果てには「私を牢屋に入れてはいけません!」と謎の主張をします。
極めつけは、彼に距離を置かれたあとのセリフ
ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ
……どういうこと!?
読んでいるこちらが錯乱しそうです。
けれども、読み終えたあと、なぜか妙に余韻が残る。心にひっかかる。
この作品に、いったいどんな意味が込められているのか。
この記事では、さき子の錯乱や孤独の心理、そして物語の背景を読み解いていきます。
惚れっぽく、依存的なさき子の人物像

さき子は惚れっぽい女性です。
水野という青年に出会い、彼が水着を持っていないと知ると、さき子はなんと町の商店で水着を盗んでしまいます。
そこまでしてしまうのは、彼に認められたい、必要とされたいという思いからです。
誰かに尽くすことで自分の存在意義を感じているのです。
こうした依存的な性格は、自分の居場所や役割が不確かであることを意味しています。
そのため、他者との関係に自分の価値を見出そうとする心の表れなのです。
家族という仮面とアイデンティティの不安
私は、両親のためには、どんな苦しい淋しいことにでも、堪え忍んでゆこうと思っていました
さき子は、自分が「親孝行な娘」でありたいと思っています。
父と母と三人で暮らし、家庭は一見円満に見える。
さき子の母は地主の妾でしたが、父親と駆け落ちしてさき子を出産します。
しかし父親が実父かどうかは不明です。
さき子は自分の出自にコンプレックスを抱え、周囲からも日陰者として見られています。
さき子が常に自分の居場所や拠り所を探し求めている理由は、彼女のアイデンティティの不安定さにあるのです。
どこか空虚なその関係性の中で、彼女は「家族のために生きる自分」を演じ続けます。
けれど、それは本当の意味での居場所とは違うのです。
彼女の行動を見ていくと、「家」や「家庭」には心理的な安定がなく、むしろ「必要とされている感覚」を満たすための仮の舞台でしかないことが分かってきます。
「親孝行な娘」としての役割を演じながらも、それは「本当の自分」を押し殺す仮面にすぎず、彼女は常に空虚さを抱えています。
共感欲求としての「恋」━━おまわりさんへの感情

『灯籠』のなかでもっとも印象的なシーンのひとつが、さき子が盗みのことで交番に連れていかれ、おまわりさんに問い詰められる場面です。
万引き後、交番でおまわりさんに取り調べを受けたさき子は、錯乱状態に陥ります。
私を牢へ入れては、いけません。私は悪くないのです。
取り乱すさき子に対し、おまわりさんも動揺し、青ざめた顔を見せます。
その瞬間、さき子は彼に好意を抱きます。
これは単なる恋ではありません。
「この人も私と同じように弱くて、傷つく存在なんだ」と感じたことによる、共感と孤独からくる“つながりへの渇望”です。
極限状態の中で、他者の弱さに自分を重ねてしまう。
その一瞬の心の通いが、彼女にとっての「恋」になるのです。
錯乱と「美しい」の真意
クライマックスで、さき子はこう叫びます。
ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ。
唐突ともいえるこのセリフに、読者は混乱を覚えるかもしれません。
しかしこれは、さき子なりの「現実への抵抗」なのです。
家庭は空虚で、社会からもはみ出し、恋も成就しない━━それでも彼女は「自分たちは美しい」と信じたい。
その願望が錯乱の中で言葉となって現れたのです。
狂気に見えるそのセリフの裏には、リアルな感情が潜んでいます。
太宰治が『灯籠』で描いたもの
『灯籠』が書かれた1937年は、太宰治にとって激動の年でした。
愛人との心中未遂、家庭の崩壊、絶望の渦の中で彼がこの作品に託したのは、次のような試みと願いです。
初の女性一人称という文学的挑戦
太宰にとって初めての「女性の独白体」作品であり、自身を外側から見つめ直すための新たな文体でした。
言葉への不信と自己分裂
さき子は、言葉が正しく伝わらない不安と、誤解される恐れを抱えています。
それは自己への不信や自己分裂の感覚につながり、太宰自身の内面とも重なります。
『灯籠』のさき子には、太宰の孤独や不安が投影されているのです。
「輪」からの逸脱者
戦時下の同調圧力が強まる時代背景のなかで、さき子は「輪」に入れない、逸脱者として描かれます。
それは、誰かに必要とされたくても社会の枠からこぼれ落ちてしまう、太宰自身の姿とも重なります。
時代を超えて共感を呼ぶ、静かな希望の物語

『灯籠』は、太宰作品のなかでは珍しく、
絶望の果てに少しだけ差し込む「希望」を描いた物語です。
さき子は環境に打ち勝つのではなく、
そこにある幸福を見出すことで、自分の居場所を見つけていきました。
それは、あたたかさよりもどこか頼りない、それでも確かに心を照らす「灯籠」のような希望です。
作中にその言葉が登場しないにもかかわらず、
タイトルに選ばれた「灯籠」は、
かすかに揺れながらも消えない光として、
さき子の記憶や祈り、そして家族とのつながりを象徴しているように思えます。
過去の作品でありながら、今を生きる私たちの心にも響くのは、
人間の本質が時代を超えて変わらないからかもしれません。
太宰治の『灯籠』は、
「人に尽くしたい」
「誰かに必要とされたい」
と願うすべての人にそっと寄り添ってくれる、静かで優しい灯りのような物語でした。